音のアトリエ🎶

Дорогие Друзья!!

皆さま、いかがお過ごしでしょうか😌

梅の花、少しずつ開花していますね。

先日、生徒さんから
「ここって、なんだかアトリエみたいですね」
と言われました。

その言葉を聞いたとき、
とても嬉しかったのと同時に、
どこか深く腑に落ちる感覚がありました。

子どもの頃、多くの人にとってピアノは、
正しく弾くこと、上手に弾くこと、
そして評価されることと結びついています。

コンクールや試験、合格と不合格。
音楽はいつの間にか、
「結果」を求められるものになっていきます。

けれど私は、
コンクールという場そのものを否定したいわけではありません。

真剣に音を聴き、
一音に向き合う経験を与えてくれる、
とても大切な機会でもあると思っています。

ただ、大人になってから
もう一度ピアノに向かおうとする人の中には、
少し違う願いが生まれることがあります。

誰かに勝ちたいわけではない。
完璧でなくてもいい。
ただ、自分の音をもう一度見つけたい。

私の教室に来られる方の多くは、
そんな静かな思いを胸に扉を開けてくださいます。

ここは、技術だけを磨く場所というより、
音と向き合いながら、
自分の感覚を少しずつ取り戻していく場所。

迷いながら弾く時間も、
立ち止まる時間も、
そのまま音楽として大切にできる空間です。

芸術大学のアトリエのように、
答えを急がず、
それぞれが自分の表現を探していく場所。

そう言われて初めて、
私が大切にしてきたものの形が
言葉になった気がしました。

もし今、
「もう一度、音楽とちゃんと向き合ってみたい」
そんな気持ちが心のどこかにあるなら、
そのタイミングはきっと偶然ではありません。

上手に弾けなくても大丈夫です。
音に触れたいと思ったその瞬間から、
音楽はもう始まっています。

この小さなアトリエで、
あなたの音に出会う時間をご一緒できたら嬉しく思います。

もうすぐ春ですね🌸

本番で起こること🎹 ̖́-

Дорогие  Друзья!!

皆さま、いかがお過ごしでしょうか☺️

先日、大人の生徒さんが、
京都コンサートホール・ムラタホールで
本番を迎えました。他の参加した皆さまの演奏も
客席で聴きながら、あらためて感じたことがあります。

本番では、不思議なことが起きます。
いちばん伝えたい瞬間ほど、音が遠くへ届かなくなることがあるのです。

気持ちが強くなった瞬間、身体は無意識に音を「押し」始めます。
前へ、強く、確かに届けようとしてしまう。

すると音量は増しているはずなのに、響きはなぜか狭くなる。
ホールで聴いていると、その違いがはっきりと現れます。

ボクシングや相撲で、本当に力のある人が押し続けないのと少し似ています。
触れている一瞬に、力そのものではない“通っていくもの”がある。

ピアノの音も同じなのかもしれません。
出そうとした音よりも、触れた瞬間に余計な力が抜けた音のほうが、自然に遠くまで響いていきます。

音を大きくすることよりも、
音が通っていく瞬間に気づけること。

その感覚を、これからも一緒に探していけたら、
と思いました😌

参加された皆さま、
おつかれ様でした🥂✨

懐かしの大好きなブリヌィ🥰🫶

箕面・東京建物 Brillia HALL✨🎶

Дорогие друзья!!
皆さま、いかがお過ごしでしょうか😌

先日、生徒さんが企画してくださり、
ホール練習を行いました。
会場は箕面にある「東京建物 Brillia HALL」。

明るく美しい空間で、音が無理なく遠くへ伸びていく、とても心地よいホールでした。

ホールでの練習の魅力は、「空間を音で満たす」という体験ができることにあります。
普段のレッスン室では、どうしても指や音量に意識が向きがちですが、ホールでは音が響いている時間そのものを感じながら演奏することになります。

どのような打鍵が、どのような音色となり、どのくらいの距離まで届いていくのか——音を“出す”のではなく、“育てる”感覚を学べる貴重な時間です。

今回参加された皆さま、お互いの演奏に静かに耳を傾け、響きを探し、音色を整えていく、その姿からは、大人になっても音楽と向き合う方ならではの真摯さが感じられ、わずか数時間の中でも音がみるみる変化していく様子が印象的でした。指導する立場として、その成長を間近で感じられたことをとても嬉しく思います☺️

ホールという場所は、大きな音を求めるためだけの空間ではなく、むしろ繊細な音ほど遠くまで届くことを教えてくれます。音量ではなく音色で伝えること、自分の音を客観的に聴くこと——こうした経験は、音楽をより深く味わい、長く楽しんでいくための大切な土台になります。

私自身、地元・高松にいた頃からホール練習が大好きで、音楽の本質に立ち返ることのできる時間だと感じてきました。大阪でも、このように音と丁寧に向き合える機会を、これからも続けていけたらな、と思っています😌

音と向き合うこうした時間が、それぞれの中に新しい響きを残して、弾くことの喜びを感じてくれたら何より嬉しいです🌸

参加された皆さま、
遅くまで本当にお疲れ様でした♬⋆.˚

#箕面市立文化芸術劇場

フィガロの結婚

Дорогие друзья!

皆さま、いかがお過ごしでしょうか😌

昨日はバレンタインデーでしたね🧚

愛や気持ちを伝えるという出来事は、とても個人的なもののようでいて、実は人と人との関係そのものを映し出す瞬間でもあります。

そんなことを考えながら、この数日、モーツァルトのオペラ《フィガロの結婚》にすっかり惹き込まれていました。

18世紀後半、この作品が生まれた時代は、社会の価値観が静かに揺らぎ始めた時期でした。
身分によって人の価値が決まるという前提が、少しずつ疑われ始めていた時代です。
《フィガロの結婚》は、その変化を声高に語るのではなく、恋愛や誤解、嫉妬や駆け引きといった日常の出来事の中に忍び込ませています。

召使いであるフィガロとスザンナは、権力を持つ伯爵よりも状況を正確に読み取り、知恵によって物語を動かしていく。
力の時代から、理解と観察の時代へ――そこには社会の転換が確かに描かれています。

けれど興味深いのは、モーツァルトが決して貴族を単純な風刺の対象として扱っていないことです。

伯爵や伯爵夫人に与えられた音楽には、明らかに厳かさと気品が残されています。
もしこの作品が単なる社会批判であったなら、音楽はもっと戯画的になっていたはずです。

それでも彼は、権力者にも内面を与えた。
それは上演を可能にするための作曲家としての機転だったのかもしれませんし、同時に、人間そのものへの敬意でもあったのではないでしょうか。
社会的立場が揺らいでも、人間の尊厳までは否定しない――その視線の成熟に、作曲家の知性を感じます。

そして何より驚かされるのは、音楽と人物像の一致です。

フィガロの音楽には機転と運動性があり、
スザンナには現実を見抜く軽やかな知性があり、
伯爵夫人の旋律には、失われつつある愛を静かに見つめる時間が流れています。

音楽が感情を説明しているのではなく、
音楽そのものが人格として存在している。

旋律、和声、リズムの選択が、その人物の思考や倫理観までも語ってしまう。
ここに、モーツァルトという作曲家の異様なまでの洞察力を感じずにはいられません。

物語の終幕で訪れるのは、勝利でも断罪でもなく「赦し」です。
すべてが暴かれたあと、伯爵夫人が選ぶのは復讐ではなく許しでした。

恋愛においても、人間関係においても、正しさだけでは関係は続きません。
相手を理解しようとする想像力――それこそが、人と人を結び続けるものなのかもしれませんね…

250年以上前の作品でありながら、私たちの現在とこれほど静かに響き合う理由は、
モーツァルトが時代ではなく、人間そのものを書いたからなのでしょう。

……とはいえ、あれこれ考えながら過ごしたあとにいただく、美味しいチョコレートはやっぱり格別ですね🤭

建国記念日

Дорогие друзья!!

皆さま、いかがお過ごしでしょうか😌

今日は建国記念日。

日本という国の強さは、
どこにあったのだろうと考えました。

かつて日本人は、漢字や漢文という中国から来た高度な文化と出会いました。

それを拒絶するのでもなく、
ただ真似をするのでもなく、

時間をかけて消化し、
仮名を生み、
独自の読み方を作り、
自分たちの文化へと変えていきました。

日本の強さは、
「純粋さ」ではなく、
外来のものを自分の力に変える柔軟さだったのかもしれません。

ピアノも同じです。

私たちが弾いているショパンも、バッハも、ベートーヴェンも、
もともとは遠い国の文化です。

楽譜もまた、最初は意味のわからない記号。

けれど、それを繰り返し読み、
音にし、
身体を通していくうちに、

それは「外国の音」ではなく、
自分の音になります。

国を支えたのは、一部の天才ではなく、
日々学び続けた人たちでした。

音楽も同じです。

舞台に立つ一人の演奏家だけでなく、
毎日地道に楽譜と向き合う人たちが、
文化を支えています。

教養は、今では
特別な人のものではありません。

ゆっくりでも、自分の力で消化していけば、
それは確かな「素養」になります。

建国記念日に、
日本という国が外来文化を受け止め、
自らのものへと変えてきた歴史を思いながら、
音楽もまた、
そうして受け継がれていくものだと感じています。

友人から梅の写真が送られてきました🤭

春もすぐですね😌

音楽が問いを残すとき。

Дорогие друзья!!

皆さま、いかがお過ごしでしょうか😌

週末、選挙ですね。

社会の行方や、

誰に期待するのかを、

あらためて考える時間でもあります。

そんなとき、ふと思い出すのが、

ベートーヴェンの交響曲第3番《英雄》です。

この作品はしばしば「革命の音楽」「英雄讃歌」として語られますが、その内側には、政治に理想を託したことの虚しさが静かに刻まれています。

《英雄》は当初、

ナポレオン・ボナパルトに献呈される予定でした。

フランス革命の理念を体現する存在として、ベートーヴェンは彼に強い期待を寄せていたのです。

しかしナポレオンが皇帝に即位したと知った瞬間、その名は表紙から激しく書き消されました。

この逸話が示しているのは、

単なる政治的失望ではありません。

むしろ、期待の置きどころを失った人間の姿そのものです。

それでもベートーヴェンは、この交響曲を捨てなかった。

英雄という言葉は、特定の人物から切り離され、音楽の中に抽象的な概念として残されます。

音楽学者チャールズ・ローゼンが指摘するように、

ベートーヴェンは晩年、

すでに時代遅れになりつつあった作曲様式をあえて使い続けていました。

ヴェーバーやフィールドら若い世代が離れていった形式を、彼は極端なまでに簡潔に提示し直し、

その限界を押し広げていったのです。

それは、新しさを追い求める姿勢ではありません。

流行から距離を取りながら、過去に身につけた言語で、なお語り続けるという選択でした。

耳が聞こえなくなり、ウィーンの音楽界から次第に孤立していったベートーヴェンは、50歳の頃には、すでに別の時代に属する人間のように見えていたといいます。

それでも彼は、

政治や時代に過剰な期待を託すことなく、

音楽そのものに問いを残しました。

社会が大きく揺れ動くとき、

私たちはつい「英雄」を求めてしまいます。

けれど音楽は、答えを与えるよりも先に、

立ち止まり、考え続けるための問いを、

そっと差し出してくれるのかもしれません。

発表会でいただいたお花💐 今日も綺麗です✨

映画 『国宝』を観て

Дорогие друзья!

皆さまいかがお過ごしでしょうか😌

少し遅くなりましたが、映画『国宝』を観てきました。

今にでも名を残す作曲家や演奏家、

分野は違っても、何かを極めていく人たちには、

共通する感覚があるのだと思います。

それは、

熱中して追い求めている最中に、

その芸に対して

憧れ、憔悴、そして陶酔が入り交じるような、

抗えない感覚に取り憑かれていくこと。

美しいだけではなく、

苦しく、時に残酷で、

それでも目を逸らせない。

『国宝』では、

そのどうしようもない感覚が、

非常に見事に表現されていました。

私自身、ピアノを通して、

恩師とともに作品を仕上げていく過程で、

あの感覚に覚えがあると感じました。

恐らく、その時間があったからこそ、

今も私はピアノから離れずにいられるのだと思います。

作品とともにある時間は、

どこか幻想的で、美しいものです。

ピアノ、そして音楽が好きな人たちは、

きっと皆、

この感覚をどこかで共有しているのではないでしょうか。

ピアノ発表会🎹

Дорогие друзья!

皆さま、いかがお過ごしでしょうか😌

先日、地元・高松にて、
母とのピアノ発表会、無事に終えることが
できました😌

地元開催ならではの
懐かしい再会もあり、毎年、発表会を通して
ご縁を確かめ合える時間の尊さを
年々感じています。

大学生になってピアノサークルに入った生徒さんが、2年ぶりに戻ってきてくれたり、
大阪からの生徒さんも参加してくれて、
今回も賑やかで心に残る発表会となりました。

何十年続いている母の発表会は、
生徒さん同士の再会の場でもあり、
関わってきた人たちにとっての
特別な時間になりつつあることも、
とても嬉しく思います。

そして、調律師さん、
ステージ裏で支えてくださった皆さま、
当日お手伝いしてくれた父兄の皆さまの存在。
多くの人に支えられて、
この発表会が成り立っていることに
心から感謝しています。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

#ピアノ発表会 #サンポート高松